8-2.life

幾万の祈りの交錯と、インスタントな答え合わせ

date26. 09. 11 Fri
authorRei K
先週、久方ぶりに神宮球場の外野席に行った。
コロナ前まで遡れば、野球場に行くことは別に特別なことではなかった。当時住んでいた渋谷から神宮球場は自転車で行けたし、東京ドームもハマスタもアクセスが良かったから、暇があれば参戦していた。当時は2,000円もしないチケットで3時間以上楽しめる、コスパの良い娯楽だった。休日はもちろん、仕事帰りに思いつきでふらっと寄ることも度々あった。
それが今ではそうはいかない。チケット代は倍以上になったし、子供も産まれた。家族の了承を取り付け、友人と予定を調整し、各種のハードルを乗り越えた上で行く場所になっていた。
今回も、昔馴染みに誘われなければ、行こうとすらしなかっただろう。誘ってくれた友人に感謝するほかない。10年前に一緒に「神宮球場詰めかけた」友人も自分も、お互い歳相応に老けていた。だが、球場に入って階段を登り、スタンドに抜けた途端、昔と同じ夕暮れの空がぱっと視界を埋め尽くした。
空は同じだし、球場の形も記憶のままだ。けれど、ブルペンの裏手には以前なら見覚えのない車椅子席のエリアがあった。コンコースの売店はずいぶん洗練されていた。ビールも食べ物も、記憶していた値段よりずいぶん高い。チケット代も上がっているというのに、ユニフォームを着て球場を埋めるファンの数もずいぶんと増えた。
けれど、試合が始まれば、やっていることは昔とまるで変わらない。
攻守が変わるたびに、贔屓チームごとに分かれたレフトとライト、それぞれのスタンドで交互にファンが立ち上がる。ピッチャーがマウンドに立つ。打者が打席に入る。選手名のコールに合わせて、トランペットが高らかに鳴り響く。そして、スタンド全体の大合唱が始まる。
野球をはじめとするスポーツのファンにはお馴染みの光景で、自分も含めた数万人が、そこで点景の一要素として希釈されていく。
だが、果たしてこれは、一見さんにはどう見えるのだろうか。
あまりにも小さい頃から、この変わらない景色を生活の一部としてきた人間には、もはや想像もつかない。けれど普段の生活で、数千、時には万余の人間が、老若男女の区別なく、100メートル向こうで棒切れを持って四角い枠の中で振り回している一人の人間のために、声を揃えて高らかに歌うことなどあるだろうか。
しかも、歌っている側の一人としては微妙なところを含む物言いになるが、この歌が直接、効果的に打者の打つ確率を上げることは、おそらくない。わずかには影響することもあるのだと信じたいが、それでも打つか打たないかは、投手と打者それぞれの実力と時の運の産物であって、応援歌の寄与するところが多大なものになるとは思われない。
それでも我々は、スタメンはもちろん、代打に控える選手たちも含めた大勢の応援歌をそれぞれ覚えている。同じ服を着て、同じタイミングで立ち上がり、同じ歌に喉を枯らし、同じタイミングで手を叩き続けている。
これはいったい何だ。
おそらく、これは祈りだ。
そして神の恩寵を乞うような仰々しいものではない。震えるほどインスタントな祈りだ。
野球場の祈りは、秒の単位で結果が返ってくる。
ピッチャーの手を離れたボールがキャッチャーのミットに収まるか、それともバッターが首尾よく打ち返すか。いずれにしても、1秒もかからずに結果が出る。そして弾き返されたボールがどこへ飛ぶか、セーフかアウトか、凡打かホームランかが判明するのにも、10秒とかかることはない。
そんな短いスパンごとに、球場をぐるりと取り囲んだファンの心に、次々と小さな祈りが生まれる。そしてわずかな刹那の後には、それらが見事に成就したり、あえなく蹂躙されたりする。
「抑えろ!」
「打て!」
「捕れ!」
「入ってくれ!」
相反する悲痛な思いが球場の中を飛び交い、次の瞬間には、電光石火で答え合わせまで済んでしまう。
自分たちファンは、お互いのことを何も知らない。一緒に来たごく僅かな仲間を除けば、近隣の席を埋め尽くし、同じ贔屓チームのユニフォームに袖を通し、共に歌い、共に祈るその人たちは、同僚でも、友人でも、家族でもない。
だが、スコアが動けば、その人たちと一斉に四方八方ハイタッチをして、時には万歳三唱さえするのである。
我々は共に贔屓チームの勝利を祈る。贔屓の選手の活躍を祈る。
けれど、互いの名前も職業も知らない。政治的なポジションも、年収も、野球観戦以外の趣味も、何もわからない。それでもこの瞬間だけは、「このチャンスを決める一打を打ってくれ」という一点において、完全に気持ちが通じている。
そして、その祈りが通じた瞬間だけは、そこに生まれた歓喜を共有する仲間になる。
こうした振舞いを一歩引いて眺めてみれば、その光景はかなり宗教儀式めいて見えることだろう。
もちろん、球場は宗教施設ではない。
願う対象は神ならぬ、すぐ100メートル向こうにいる人間だ。「抑えろ!」と祈られる投手も、「打ってくれ!」と高らかに歌われている打者も、「捕れ~!」という声を背に受けて守る野手も、みな野球が上手くて身体能力が高いだけの、「人」でしかない。
祈りの対象として偶像化するには、あまりにも心許ない。
しかしそれでも、贔屓チームの勝利を希う我々は、そこに祈りを託さずにはいられない。4番のサノーがホームランを打ってくれるかどうかが、今日の今この場では死活問題なのだ。
もっとも、それも熱戦が続いている間だけの話だ。
9イニング、だいたい3時間ちょっとが過ぎれば試合は終わる。詰めかけた数万人の宗教共同体は、たちどころに解散して元の他人に戻る。それぞれが四方八方の電車に乗り込み、少しずつ個別の生活へと戻っていく。
それでも帰り道、鞄や帽子についた小物なんかを見て、ふと「あの人も仲間か」と微かに察せられたりする。
久しぶりに、躊躇なく大声を出して、大勢の知らない人とたくさんの祈りを共有した。
楽しかった。
こういう時間が、時には必要なのかもしれない。
無数の人々が同じ祈りを捧げ、その結果が秒の単位で返ってくる場所は、おそらく他にあまりない。
野球場は、そんな場所だ。
帰ってきてからファンが上げた動画を探したら、自分が歌っているところもはっきりと移り込んでいた。こういう記録が残る時代になったのだなぁ。